青森の更生保護
教誨師をしていた唯一は、自分を頼ってくる釈放者を
何としても更生させたい。という気持に駆られていた。
唯一は明治4年9月25日、青森県北津軽郡鶴田村(現在鶴田町)で農業を営む宮本源吉の6人兄弟の次男として生まれたが、貧農で兄弟が多いため唯一は出家を余儀なくさ れ、明治16年北津軽郡五所川原町(現在五所川原市)龍泉寺住職棟方玉応の弟子となり 仏道に入った。唯一は英邁慧敏で玉応師の信頼が厚く、東都に遊び、曹洞宗中学林、高等学 林を経て大学林(現在の駒沢大学)に入る。
大学林卒業後は弘前市宗徳寺住職となる。その後、第8師団の布教師及び教誨師をして いた唯一師は、自分を頼ってくる釈放者を何としても更生させたいという止むに止まれぬ 気持に駆られていた。折しも明治30年1月、英照皇太后崩御大葬に当たり、減刑令が発布 され多数の放免者をみるにいたり、全国各地において保護会設立の気運が一段と盛り上がった。唯一師は、青森県においても免囚保護事業の必要性を痛感し、弘前市内各宗寺院 (浄土宗を除く)とはかり、免囚保護会仏教慈晃会の創設に漕ぎつけ、自ら初代会長に就任した。明治31年5月30日のことである。
その後、明治40年から免囚保護事業奨励金の国庫支出、明治43年4月18日の岡部司法大臣の府県知事に対する出獄人保護に関する訓示や、明治天皇崩御による恩赦を間近に控えるなどを背景に、唯一師の主唱による仏教慈晃会は、県下一般各寺院の共同事業と して、大正元年8月10日青森県仏教慈晃会と改称し、知事を総裁に、地方裁判所長及び検事正を副総裁とし、唯一師は会長としてその任にあたった。
唯一師は峻厳実直、己にきびしく又弟子達にも非常にきびしかった。
“ 至誠” “ 断固” が口癖で一旦引受けたことはどんなことがあってもやり抜くという人であった。
釈放者の中には師の親身も及ばぬ世話に感激し、更生した姿をみせるため師のもとを訪ねる者も数多かった。
或る時は、秋田刑務所の釈放者が師の恩に感じて自作の丹精込めた藤椅子を寄贈する例もあった。唯一師はそれを好んで使ったという。
唯一師は大正2年6月、秋田県大曲町曹洞宗大川寺住職に迎えられたが、なお引続き宗徳寺の監理に当り(昭和九年黒瀧精一師にゆずる)、その一方で社会救済事業に貢献した。その後曹洞宗大学林副学監に任ぜられ、やがて学監に昇任し、退任後大正11年から宗務会議員として活躍した。